2018年06月20日(水)

しかし、私にとっては、あなたがたによる判定、あるいは、およそ人間による判決を受けることは、非常に小さなことです。事実、私は自分で自分をさばくことさえしません」Tコリント4:3



私たちは人からの批判を経験する。人から批判される時、痛いが、
吟味してみる事は有益だ。その批判が当たっているかも知れず、主
からの忠告かも知れないからだ。思い当たる事があれば悔い改めれ
ばよいし、批判のための批判ならやり過ごせばよい。

私たちは人が気になって仕方がない。人にどう見られているかが気
になり、良く見られたい。人目を気にして生きている。人目を気に
せずに生きるためには、確固たる信念が必要なのではと思う。そう
なら、人は人、自分は自分と思えるのではないかと。

しかしパウロは「私にはやましいことは少しもありませんが、だか
らといって、それで無罪とされるのではありません。私をさばく方
は主です」と言っている。パウロは自分では、やましい事は何も無
いと。しかしそれで無罪なのではなく、主にすべてを委ねている。

自分を本当にさばくのは、自分ではない。人のさばきも、自分のさ
ばきも意味がない。主に委ねていた。それゆえパウロはいつも平安
でおれた。パウロは様々な批判、批評を受けていた。しかしそれは
人間による判定であり非常に小さな事だと。自分の事を真に知って
おられる方があり、その方に委ねているので、自分で自分をさばく
こともしないと。

そこに人の目からの解放があった。パウロは一貫して、人相手でな
く、キリスト相手の生活を遂げた。私たちも、人がどうこうでなく、
耳を澄まして一心に主の御声を聞き、主を求めて行く時に、心はこ
の世のものでない、御霊の平安を与えられて生活して行ける。
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自分を自分で裁くことからも解放されるというのは何と自由で幸い
な生き方だろう。人を裁いたり裁かれたりする者でなく、正しく裁
かれる主の前にヘリくだりお任せしたい。