2019年07月21日(日)

「彼らはそこから、ケルビムに座しておられる万軍の主の契約の箱 をかついで来た」Tサムエル4:4


偶像礼拝とは、単に金や木の像を拝む事ではない。まことの神を自
分の願望、欲望のために利用する事も偶像礼拝だ。主を畏れ、御前
に自らを砕いて、へりくだり、従うのではなく、自分の都合、利得
のために、どこまでも自分のために、神を持って来ようとする態度
だ。だから聖められる事なく、何一つ変えられる事も、正される事
もなく、神は、ただ自分の欲望充足のための手段となってしまう。

イスラエルの民は、ペリシテとの戦いで敗北した時、主の契約の箱
を持って来ようと言った。箱を持って来さえすれば、勝てると思っ
た。しかし契約の箱を持ってくれば、神をかつぎ出せるのではない。
そもそも自分達のために、神をかつぎ出そうなどという考えが根本
的間違いであった。

イスラエルは見事に打ち負かされ、箱まで奪われた。神は奪われる
がままにされた。神が守れなかったのでなく、神が敗北させられた。
裁きであった。そして神の箱の中を見たベテ・シェメシュの人々を
激しく打たれた。神を畏れ、伏すのでなく、上に立ち、好奇心と興
味でのぞいた結果だった。

神を動かすのでなく、私たちは神を神として崇め、御前にへりくだ
って従って行く、これが方向転換であり悔い改めだ。神の喜ばれる
態度だ。平安や喜びがない時、御霊に心を探って頂こう。主への態
度、又、方向性が間違っていないだろうか。正される時に、主の溢
れるばかりの愛がわかり、心平安にされる。軌道修正され、心に御
霊の喜びが来る。

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肉は根深く、自己実現や自己充足のために神を利用しようとする。
又、気づかずにしている場合がある。自分、自分、になって、底に
は自分の栄光になってしまう。御霊が気づきを与えて下さる。御前
にへりくり、ひれ伏す時に、御心の中に置かれ、結果的に充足感で
満たされる。