2020年01月21日(火)

「ご存じのとおり、私たちは今まで、へつらいのことばを用いたり、むさぼりの口実を設けたりしたことはありません」Tテサロニケ2:5



パウロは「私たちの勧めは、迷いや不純な心から出ているものでは
なく、だましごとでもありません。人を喜ばせようとしてでなく、
私たちの心をお調べになる神を喜ばせようとして語る」と言った。
そしてへつらいの言葉を用いたり、貪りの口実を設けたりした事は
無いと。偽預言者が人々を導いて行くのは、何らかの自分たちの利
得のためだ。

それが貪りであり、そのためにへつらいの言葉を用いる。へつらい
とは、神を喜ばせるのではなく、人を喜ばせる事であり、そのため
に語る言葉だ。人に心地良い言葉であり、人に都合の良い、聞こえ
の良い言葉だ。誰しも、痛い、辛口の言葉は聞きたくない。心を刺
される言葉は拒否したい。罪を指摘される言葉、自分の見たくない、
認めたくない部分を突かれる言葉だ。

しかしそこが主によって対処されてこそ、御霊の実である、御霊の
喜びや平安を得られる。それは真の平安だ。そして成長して行ける。
私たちの日常生活はどうだろう。一つ一つの行為の動機はどうだろ
う。主を喜ばせようとするためだろうか。それとも自分の利得のた
めだろうか。

又、良い人に見られたいがために、人の歓心を得ようとしているだ
ろうか。それはへつらいだ。肉によるものなら、肉の実を結んでし
まう。そこには秩序の乱れや妬み、偽り、疑いが生じてしまう。主
を喜ばせようとする時、秩序、喜び、平安の御霊の実を結んで行く。
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目の前の人だけを見ていくと単なる同情心や話の流れの勢いで右往
左往させられる。落ち着いて主に祈り、主は何を語られるかと尋ね
ていこう。隠れた動機を主に示してもらおう。