2022年04月20日(水) 「それは、私がどういうばあいにも恥じることなく、いつものよう に今も大胆に語って、生きるにしても、死ぬにしても、私の身によ って、キリストのすばらしさが現わされることを求める私の切なる 願いと望みにかなっているのです」ピリピ1:20
「それは、私がどういうばあいにも恥じることなく、いつものよう に今も大胆に語って、生きるにしても、死ぬにしても、私の身によ って、キリストのすばらしさが現わされることを求める私の切なる 願いと望みにかなっているのです」ピリピ1:20
ヘロデ王がヤコブを殺害した。するとそれがユダヤ人に気に入られ たのを見て、次はペテロ殺害に手を伸ばした。ペテロを捕らえ、投 獄し処刑しようとした。しかしペテロは、御使いにより、奇跡をも って牢から救い出された。 「教会は、彼のために、神に熱心に祈り続けていた」と、教会では ヤコブの時も、ペテロの時も同じく必死に祈った。その結果ヤコブ は処刑され、ペテロは救出された。「なぜ?」と思うだろうか。 が、 これはヤコブとペテロへの、主のご計画であり、召しだ。ヤコブは 殉教により神の栄光を現わし、ペテロは更なる宣教の任務により、 神の栄光を現わす。 ヘブル11章にも「ししの口をふさぎ、火の勢いを消し、剣の刃を逃 れ、戦いの戦士となり・・」ある人々は、驚くべき奇跡により、ど んどん大変な勢いで進軍して行った。そして同時にある人々は「牢 に入れられ、石で打たれ、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、乏 しくなり、苦しめられ」と殉教して行った。 見える結果は異なるが、どちらもが「信仰によって」歩んだ。一人 一人に備えられた神のご計画が全く違う。各々に別の使命、召しが ある。人は関係無く、主だけを見て、自分に与えられた人生、自ら に備えられた御心を歩む事が、一番の喜びであり、そしてそれは神 の栄光を現して行く。 --------------- パウロのように大きな働きは出来なくても、置かれている場所で感 謝して主と歩もう。どういう場合でもいつものように。信仰によっ て歩むとき、私の身によって主が崇められるのではないだろうか。