2024年08月21日(水)

「だれでもキリストのうちにとどまる者は、罪を犯しません。罪を 犯す者はだれも、キリストを見てもいないし、知ってもいないので す」Tヨハネ3:6



私たちが「神の子」である事の根拠は何だろう。善行、立派な態度
だろうか。信仰的、霊的だから、神の子だろうか。主の言われる事
に、きちんと従っているから神の子だろうか。しかし霊的クリスチ
ャンだから、神の子なのではなく、主イエスを信じ、新しく生まれ
た瞬間に、すでに神の子だ。

母親から生まれたから、その子どもであるように、私たちは、神か
ら生まれたから、神の子だ。良い行ないや態度の事でなく、生まれ
の問題だ。使用人は、主人の財産を相続する事はない。しかし、子
どもは、親の財産を相続する。私たちは、親である神の相続人だ。
子どもなので、何もかもを相続する。キリストとの共同相続人だ。

何という驚くべき、恵まれた地位にいる事だろう。放蕩息子の兄
は、怒り、ふてくされていた。しかしその兄に、父親は「私のもの
は、全部おまえのものだ」と言われた。全部と。御父と私たちは、
雇用関係でなく、無条件で愛され、愛で繋がる親子関係だ。子であ
るなら、親に似て行く。聖くなる事を求めて行く。

キリストにとどまる者は、罪の内を歩まないとある。これは、全く
罪を犯さないという意味でなく、弱さのゆえに罪は犯してしまう
が、故意に罪を犯し続けないと。御霊を宿すと、罪を犯すと苦しく
なり、犯し続ける事ができない。「なぜなら、神の種がその人のう
ちにとどまっているから」神の種は、御言葉だ。

神の言葉が心にととまるので、罪を犯し続ける事から守られる。神
から生まれ、神の種を持っているからだ。サタンにも、罪にも、打
ち勝って行ける。
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私たちはすでに神の子供という立場だ。何という恵みだろう。失敗
したり、力なく落ち込むとき、この主の約束の上に立ち、喜びを取
り戻そう。主を信じた時からこの希望の上に立たされている。