2004年10月20日(水)

「汝ら静まりて、我の神たるを知れ」(詩篇46:10)

私達の失敗は、神に委ねきれないところから起こる。エレミヤ書には
「湧き水であるわたしを捨てて・・水をためることのできない、壊れた水ためを自分達のために掘った」とある。神を無視し、自分の力で自分のために水ためを掘る。これは神を捨てる事だ。神のご計画が成ると信じていれば、水ためを掘る必要はない。委ねきれないので、自分で解決しようとし失敗する。自分で自分の信仰も人生も何とかしようとして苦しむ。主を待つ事ほど難しい事はない。すぐに結果が欲しい。罪の性質は待てないので、自分でしようとする。しかし、主を待ち望む時は、人生における素晴らしい成長の時である。「待つ」ことの本質が神のへの「信頼」であるからだ。静まる事こそ、神を信じる事の表明だ。
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待つことほど難しいものはない。立って動く方が簡単だ。生まれつきの肉の性質は待てない、不安でたまらず何とかしようと動き回る。しかし、待つ事には大きな意味がある。主への信頼の時、信仰が根差す時、育まれる時、成長の時、本質的に神を知る時だ。大いなる祝福の時だ。