2007年03月19日(月)

[そこで主は仰せられた。「この民は口先で近づき、くちびるでわたしをあがめるが、その心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを恐れるのは、人間の命令を教え込まれてのことにすぎない」イザヤ29:13




多くの民が神殿へ行き、献げもの
を献げていた。沢山の人々が宮も
うでをしていた。今で言えば、人
々は皆、教会へ来ていた。しかし、
形だけであった。形だけで神をあ
がめ、すべてを儀式的に執り行っ
ていた。形は整っているが、イザ
ヤの時代の民達も、今の時代の形
式的な人々も、決して神の言葉を
受け入れてはいなかった。口では
受け入れていると言うが、心では
そうでは無かった。「彼らはやみ
の中で事を行ない、そして言う。
『だれが、私たちを見ていよう。
だれが、私たちを知っていよう』
と」民は神が見ていない、知らな
いとの前提に立ち、生活していた。
その心は神から遠く離れ、御言葉
は聞きたくない。神に従うより、
自分の思い通りに、好きなように、
自分を神として生きて行きたい。
干渉されたくない。教会に来て礼
拝しているが、私達も心の底はそ
のようだろうか。しかし、神は外
側でなく心を見られる。その頃、
神の言葉が封じられた書物のよう
になった。11'なぜか。民が御言
葉に聞かないため、神が彼らの心
を閉じられたと。私達の態度はど
うだろう。へりくだってまず御言
葉に聞こう。神は語られ、生き生
きとした愛の交わりに入る。
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礼拝が習慣となってはいないか。
神様によって週の初めに、世から
取り出され愛する神様に霊とまこ
とをもって賛美と祈りをささげら
れることを感謝し、自分自身を献
げていこう。