2007年10月21日(日)

「あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか」創世記3:11

神は、罪を犯したアダムとエバに、神の側
から御声をかけて下さった。「恐れて、隠
れました」恐れて逃げ回るしかない彼らに、
神の方から「あなたはどこにいるのか」と
近づいて下さった。断罪し、さばくためで
はなく、罪ゆえに遮断されてしまった交わ
りの回復を願われた。しかし、悔い改めの
機会が与えられても、回復のチャンスが与
えられても、そうしたらよいとわかるが、
できなくなってしまったのだ。善悪はよく
わかり、何をしたらよいかもわかる。しか
し、その善を行うことができない。「私に
は、自分でしていることがわかりません。
私は自分がしたいと思うことをしているの
ではなく、自分が憎むことを行っている」
「私は、自分でしたいと思う善を行わない
で、かえって、したくない悪を行っている」
自分のせいでなく、あの人がああ言ったか
ら、この人がこうしたから、相手が悪いと、
自分を正当化してしまう。そんな罪深い私
たちを救い出すために、御子がすべてのさ
ばきを受けて下さった。「肉によって無力
になったため、律法にはできなくなってい
ることを、神はして下さいました」良い事
がわかっていても、出来ない無力、そんな
私たちのために神が御子によるあがないと
いう道を用意して下さった。神の前に、徹
底無力を認める時に、御霊の力により出来
なかった事が、出来るようにされる。
・・・・・・・・・・
自我でどうにも出来ない自分のために、悔
い改める事すらできない自分のために、十
字架のあがないがあり、御霊の助けがある。
徹底無力を知る事が最大の祝福だ。無力を
認める時、神の力、愛を知り、恵みがわかる。