2008年09月20日(土)

「鉄は鉄によってとがれ、人はその友によってとがれる」箴言 27:17

私たちの願いは平穏無事だろうか。こ
の世の人々は平穏無事のために宗教を
求める。交通安全、家内安全、無事が
良い事という価値観からだ。クリスチ
ャンになって試練があると、世の人に
怪しまれ非難される。信じている意味
が無いと。しかし信仰者には見方が変
わる。試練は嫌だが、練られ、きよめ
られ成長のためのものだ。人は罪の性
質があり、何もないと高慢になり、神
に頼る事なく、世の楽しみにはまり、
又、世に流され、神から離れてしまう。
鉄は高熱の炉で溶かされ、不純物を除
かれ、打ち叩かれ、磨きをかけられと
いう「苦痛」のプロセスを通って、作
り上げられる。神は私たちの成長を計
画され、対人関係によって私たちを研
がれる。人によってだ。今、もし学校、
職場、近隣で、難しい対人関係にあれ
ば、それは偶然ではなくまさに神の取
り扱いだ。寛容な相手なら決して気づ
く事のない、自らの内にある憎しみ、
妬み、怒り、高慢・・様々な心に気づ
く。いかに罪深いかを知り、主の十字
架の意味を知る。砕かれ訓練され、痛
く苦しいが、愛、喜び、親切、柔和の
実を刈り取る。又、ある人は強烈ライ
バルと切磋琢磨し、結果的に双方素晴
らしい仕事が完成した。これは、相手
がいなければ決して出来ないものであ
った。対人関係によって、自らを削り、
打ち叩き、磨いて下さっている主ご自
身を覚えよう。
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良くも悪くも目の前の対人関係は偶然
でなく神からのものだ。神が置かれて
いる。何かを教えるためであり、成長
のためだ。神に焦点を合わせて行く時、
学ばせたいものが見えてくる。