2008年11月20日(木)

「御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか」ガラテヤ3:3



ある人が、どうしても愛せない人がいた。嫌いで、憎しみをどうする事もできなかった。
しかし、憎しみには、とがめを感じ、罪責感があり、罪意識にさいなまれた。

その罪意識から逃れるために、逆に、相手に親切にしようと頑張った。
憎しみを隠し、ふたをし、罪責感から逃れたくて必死だった。

何とか、礼儀正しく接し、愛の行為をしようと頑張った。
しかし、相手に良い行いをしようとすればするほど、心は、いら立ちと憎悪でいっぱいで、
どうにもならなかった。

相手の悪口が言われている場所では、しっかり心で同意して溜飲を下げるのであった。
そして、溜まったストレスにより、陰では非難や悪口を言ってしまうのであった。
愛からは、ほど遠い結果となっていた。

この間違いは、行ないによって罪責感を無くそうとした事だ。
良い行ないによって自分を救おうとする。
憎悪、敵対心、憎しみを認めないで、それを暗闇に封じ込め、隠し、無い事にしてしまう。

そうではなく、憎しみの感情を光のもとに出し、自分がそういう者であると認める事だ。
その時、それはすでに光の中だ。あるがままを認め、告白する時、必ず変えられて行く。

大切なのは、良い行ないでなく、罪を認め、告白し、悔い改める事だ。
その時、新しく新しくされ自由にされて行く。
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肉によって完璧を装う事はできるだろう。しかし、いつまでも内側は、朽ちていく古い人の
ままで良いのだろうか。御霊によって新しくされ、自由にされ、つたない歩みであっても信
仰もって歩みたい。