2009年09月19日(土) 「道々お話になっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか」ルカ24:32
「道々お話になっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか」ルカ24:32
エマオ途上の弟子たちは、失望と落胆で、郷里に向かっていた。自分たちの思い と違ったのだ。主はローマ帝国をくつがえして、主の王国を樹立されると思い込 んでいた。 その主が一番惨めで哀れで、辱めの十字架刑で死んでしまわれた。絶望の思いで、 なすすべなく郷里へ、とぼとぼ歩いていた。自分の思いが強いと、主のお言葉や 現実をそのまま受け止める事ができない。 種まきの例えの、道ばたの土地だ。地が固くて、種をシャットアウトし、跳ね返 してしまう。聖書を読む時も同様だ。御言葉に向かう時に、自分の強い願望を持 ったまま向かうと、その願望にそった、自分勝手な聖書解釈をしてしまう。 この世の宗教、偶像は、自分の願望を叶えて貰うためのものだ。家内安全、商売 繁盛、無病息災・・、そして自分の願望が叶わない時、不満で一杯になり疑問を 持つ。そんな神は要らない。 私たちもご利益だけを求めるなら、当然叶わない時に失望落胆する事、間違い無 しだ。そうでなく、私たちは「神の」お心を行なうために生きている。その時、 真の喜び、満たしがある。聖書に自分の願望を投影して、御言葉を読み取るので なく、神からの語りかけを聞く時に、弟子たちのように心が燃えて来る。 導き、知恵、力、支えが与えられる。自分の思いを一旦明け渡して、白紙にして、 御声を聞いてみよう。神に期待を置くなら、自分の思いが成らなくとも、真の喜 びと楽しみを持って生きる事ができる。 ・・・・・・・・・・・・・・・・ 自分の思いが強いため、神が見えなくなっていないか。しばしば自分の思いが 妨げとなっている。それに気づく事から始まる。自分の思いに立つのでなく、神 の御心に従おうとの思いの中で、必ず神がわかり、御声が聞こえて来る。