2009年12月20日(日)

「今、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、実に、神なのです」創世記45:8

           

ヨセフの苦難の人生はよく知られるところだ。ヨセフを妬んだ兄たちにより、隊
商に売られ、家族から引き離され、全く見知らぬ異国の地エジプトへ。ヨセフは
どんな思いであったろう。

しかし「主がともにおられたので」エジプトの地で主人の好意を得、大きく祝福
された。しかるに主人の妻によって、無実の罪に陥れられ監獄に。異国の地で、
投獄の身になり、それも濡れ衣であり、ヨセフの心はいかばりだったろう。

しかし尚も「主はともにおられ」恵みを施され、ヨセフは監獄長の心にかない重
んじられた。絶望的な状況の中で、「共におられる主」を信じて、ヨセフはその
場その場で、自分にできるベストを尽くして生きて行った。

すべてが主の主権と御手の中にある事を信じたから、主に委ねる事ができた。結
果的に、大いなる神の摂理のゆえに、先にヨセフがエジプトに遣わされ、世界的
飢饉の中、ヤコブと一族を救うことになる。

こういう事だったのかと、パズルが埋まる時、神の深い素晴らしいご計画が見え
て、神の栄光が現れる。ヨセフは、兄たちへの憎しみや責めはなく、「私をここ
に遣わしたのは、神」と信仰によって捕らえることができた。

兄たちの悪巧みでなく、それをも摂理のもとに用いられた背後の神を見ていた。
人生と、人生に起こる出来事を、神のメガネで見てみよう。今までわけがわから
なかった事柄に光が差して、神と神のご計画が見えて来る。

・・・・・・・・・・・・・・・・
主が共におられるなら、負に見える事態も、結局はすべて祝福だ。それが主が共
におられるという事だ。そこに救いがあり、希望があり、だからすべての事につ
いて感謝できる。後の日にパズルが埋まった完成図が見える。そしてある事は天
に帰って見える。