2010年02月17日(水)

「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました」詩編119:71


この世には様々な苦しみがある。経済的困窮であったり、対人関係で悩んだり、健康上の問題であったり、又、不正がまかり通り、正直に生きて苦しむ事もある。一方的に被害をこうむる事もあり、理不尽を感じたりする。

そんな時、なぜこんな苦しみが私に?と悩み、なぜ?どうして?と考えてしまう。聖書から「苦しみ」の意味を見い出せる。まず、罪の結果としての苦しみがある。

ダビデはバテシバとの姦淫とウリヤ殺害の罪を犯して、悔い改めず、隠していた期間、悶々の苦しみを通った。「1日中うめいて、骨々は疲れ果て、骨髄は夏のひでりでかわききった」次に、罪とは関係の無い苦しみがある。

神から「試練」として送られて来るものであり、神からの訓練だ。「愛する者を懲らしめ」愛ゆえの鍛錬だ。罪の結果ではない。そのところで悩む必要はない。この時は真正面から試練として受け入れる事が、祝福の秘訣だ。

「試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい」必ず一段階成長させて下さる。又、時には理由がわからない苦しみもある。しかし神は無駄な事は一つもされない。耐えられない試練は一つもなく、脱出の道も備えられている。

患難は忍耐を生み、忍耐は品性を、品性は希望を生み出す。今、試練にあるなら、必ず「苦しみに会ったことは幸せでした」と言えるようになるので、先の祝福を覚え、忍耐して行こう。
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苦しい状況だけを見ていると早く解放されたいと思う。刈り取りの苦しみ、刈り込みの苦しみ、それぞれの苦しみや試練を通ることで何を学ばされているのだろう。試練を送られている神から離れずしっかりそれを受けとめよう。