2010年05月20日(木)

「王は言った。『あなたは、どうして礼服を着ないで、ここにはいってきたのですか』しかし、彼は黙っていた」マタイ22:12



当時の習慣があった。王宮での宴会時には、玄関で、出席者全員に礼服が与えられた。人々はその礼服に着替えて祝宴に出席した。だから、皆、備えられた礼服を着用できた。王が客を見ると、そこに一人この礼服を着ていない者がいた。この人は王の礼服を着たくなかったようで、着ていなかった。自ら拒否したのだ。

これは王に対して非常に失礼な行為であり、外の暗やみに放り出されてしまった。与えられた礼服は、主イエス・キリストの血潮の贖いによる、義の衣だ。神は、キリストの代価によって、神の方から「義」を用意して下さった。キリストの贖いによる「義」が備えられている。私達は受け取るだけだ。

しかるに、この礼服を拒み、自分の服のままで、御前に出ることは、自分の義に拠り頼む事だ。自分で綺麗になって御前に出ようとする。神が義の礼服を用意して下さっている、それを着たら良い。義の衣を着るとは、主イエスを信じる事であり、王の愛顧に感謝する心だ。

元々選ばれも、招かれもしなかった者が、神の祝宴の席に着けるのは、神の特別な恵みと憐れみによる。神が招いて下さるからこそ、私たちは救いにあずかれる。もし自分の内にある何かによって選ばれ、招かれるのなら、決して神の前に出ることは出来ない。祝宴に招かれ、礼服が備えられている特別な恵み憐れみを今一度覚えよう。
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私達は何も持たずに、ただ行けばいい。誰でも招待されているのだ。礼服までそこに用意して下さっている。何と感謝なことか。自分で身を整えたり、自分で立てた義を脱ぎ捨て、神からいただいた十字架で贖われた主の義の衣を身に付けよう。