2010年09月19日(日)

「箱をかつぐ祭司たちの足が水ぎわに浸ったとき・・水は完全にせき止められた」ヨシュア3:16

                          

祭司たちは、契約の箱をかついで、ヨルダン川に足を踏み入れた。それは丁度、
春の最も水かさが増える時期であり、自分の背丈よりも深い川に入って行こうと
した。目に見える何の保証もなく、ただ、ヨシュアの言葉だけであった。

「足の裏が、水の中にとどまると、上から流れ下って来る水がせきとめられ、せ
きをなして立つようになる」。先に、川の水が、そのようになってから、渡るな
らまだ渡れるかも知れない。

しかし、まだ川の水が岸一杯に溢れている時に、足の水の中に入れる事は決して
簡単ではない。そこには信仰が必要だ。示され、語られた御言葉に従うことが信
仰であり、信仰もって従う時、いつも神のみわざを見る。

何も見えなくとも、一歩従う時に、確かに神が見えて来る。私たちは、見えない
状況は不安であり、恐れがあり、見えたなら従おうと思う。しかし、見えたなら
信仰は要らない。信じる必要がない。見えているのだから。

先にヨルダンの水がせき止められたのでなく、足を踏み入れた後に、せき止めら
れた。この順番は重要だ。見てから従おうとするなら一生従えない。神を経験す
る事なく一生終わってしまう。

今、一歩を踏み出すように示されているなら、御言葉を頼りに、何も見えない中
で、踏み出そう。神の素晴らしいみわざを見ることになる。

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民はとうとうと流れるヨルダン川を渡り、約束の地に入った。一歩を踏み出した
からだった。一歩を踏み出した時に、主の力が現れ、みわざが現れた。不信仰を
悔い改め、「身をきよめ」て、信仰持って示された一歩を踏み出そう。