2010年11月19日(金)

「肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です」ローマ8:6



聖書でいう「肉」とは、泥酔やギャンブルや、妬み、憎しみのようなストレートな悪だけではなく、神のために善をしようとする「肉」も含まれる。宗教的な肉であり、それは、生まれながらの古い性質を使って、神を喜ばせようと努力する。

アダムとエバがエデンの園で、罪を選び、罪を犯した時に「善悪を知るようになった」とあるが、悪と同時に善も知った。つまり、自分の力によって善をしようとする。しかし、善であっても、肉の力で行なうなら「肉にある者は神を喜ばせることはできません」となる。

私たちは御霊に導かれ、御霊の力によって初めて神に従い、仕えることができる。
そして、それが神に受け入れられる。クリスチャンとは、片っぱしから、どんどん善行をする人のことではない。「神は・・その良い行ないをもあらかじめ備えてくださった」とあるように、自分で考え出した善行を、次々とするのでなく、神が予め用意して下さった善行にあずかる。

つまり、御霊に導かれた行為を行なって行くのが、クリスチャン生活だ。自分の思い、自分の判断こそが肉であり、それは死であると。主との親しい交わりの生活をして行く時、御霊に導かれて行く。御霊にせよと言われた事に従って行く時、いのちに至り、周囲にも主の栄光を現して行く。しようとしている事を、まず主
に告げて、導きを求めて、よく祈ろう。
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思い浮かんだ示しが神様からのものか、肉からのものか。善いことならと躊躇なく動いてはいけないと教えられている。よく祈り、動機も吟味し、神様が望まれることだけを見極めて従いたい。