2011年03月20日(日)

「主のことばのとおり、上等の小麦粉・・大麦が売られた」U列王7:16



エリシャが、飢饉で人々が次々餓死する危急の折りに「主が仰せられる『明日、
小麦や大麦が売られるようになる』」と告げた。すると侍従が、「たとい、主が
天に窓を作られるにしても、そんな事があるだろうか」と言った。その時エリシ
ャは、あなたはそれを見るが、食べられないと預言した。

そんな時、サマリヤの門に四人のらい病人がいた。町は飢饉、どうせ自分達は死
ぬ。同じ死ぬなら、敵の陣営へ入ってみようじゃないか、食料があるかも知れな
いと敵地へ。敵の陣営では、神が大軍勢の騒ぎを聞かせ、襲撃に勘違いさせた。

アラムは驚き恐れ、慌て、陣営を置き去りにし逃亡した。そこには、山ほどの金
銀、溢れる食料があった。それを彼らは、王家に知らせた。王は信じなかったが、
偵察により事実を知った。すると、大勢が殺到し、その侍従は踏みつけられ死ん
だ。

預言通りになった。実際、溢れる食料を神は用意された。しかし、それを信じな
ければ、自分のものにはならない。現に溢れる食料があるのに、飢えて死ぬ事に
なる。私達はどうだろう。十字架の救い、神の愛、恵み、罪の赦し、義とされる
事・・、溢れる食料の中にいながら、信じなければ餓死するように、溢れる恵みの
中で、不信仰で餓死寸前ではないだろうか。

自分で恵みを阻止する、自分の姿ではないか。すでに莫大な食料が目の前にある。
信じようとしない、自分に気づく事から、祝福は始まる。そのままの姿を祈りに
もって行こう。

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信じようとしない時、現に目の前にあるものを受け取れない。それを自分のもの
とする事ができない。しかもそれは、溢れるばかりの祝福だ。楽しむ事ができな
い。しかし、信じる時に、そのまだ見ていないものを、自分の手にする事ができ
る。そして、自分で楽しむ事ができる。