2011年11月19日(土)

「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安・・」ガラテヤ5:22


私たちにとって、幸せとはどういうものだろう。自分の思い通りに、自分の好き
なように生きるなら、幸せで、充実感があると思うだろうか。人生が自分の願い
通りになり、自分のしたいようにできれば快適だと思う。しかし、それは勘違い
だ。決してそうではない。

例えば、富が自分を幸せにしてくれると信じ、富を得るが、幾ら得ても満足する
事が決して無い。富を持つなら、更に得たい。これは貪欲だ。貪欲は更に貪欲を
生み、とどまるところを知らない。金持ちが幾ら富を持っても決して満足しない
ように。欲望は、満たせば満たすほど、心は更に渇く。もっと欲しいと思う。

生きがいを求めて、次々とあらゆる事に手を出し、駆け巡る人を見るだろう。自
分を喜ばせ、自分の欲望を充足して行く人生はますます渇くばかりだ。問題は
「自分中心」にあるからだ。神を喜ばせ、神を第一にした人に、喜びが無かった
というためしが無い。

人は喉から手が出るほど喜びが欲しい。もし喜びが欲しいなら、自分を喜ばせる
事を止め、神の喜ばれる事を求める事だ。喜びは御霊の実だ。御霊の実は、御霊
に自分を明け渡して、従って行く時に与えられる。自分で得るのではなく、神に
従う時に、心は満たされる。そして、御霊に満たされる時に、渇きは止む。

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自分の欲望充足や自己実現が、喜びを与え、心を満たしてくれると勘違いする。
が、そうではない。自分を喜ばせる事は、心満たされないばかりか、ますます深
刻に渇いて行く。虚しさが募る。心の満たしは御霊による。自分を明け渡して、
主に従う時に、真の平安が来る。