2012年07月20日(金)

「お子さまが生きておられる時は断食して泣かれたのに、お子さまがなくなられると、起き上がり、食事をなさるとは」Uサムエル12:21


ダビデは、病気の我が子が癒されるように、断食して祈り、主に求め続けたが、願いは叶わなかった。子供は死んでしまったのだ。普通なら、どんなに心痛み、悲しみに沈み、失望落胆する事だろう。こんなに祈ったのに、何でと。しかし、ダビデはそうではなかった。我が子の死を知ったダビデは、身体を洗い、着物を着替え、主の宮に行き、主に礼拝を献げたのだ。そして、自分の家に帰り、食事をとった。

家来達は驚いた。子供が生きている間は、断食をして泣いて祈ったのに、亡くなると、起き上がり食事をするとはと。ダビデが、断食して祈ったのは、もしかすると主のあわれみで、子供が助かるかも知れないと思ったからであり、死んだなら、自分は子供のもとへ行くだろうが、子供はもうこちらへは戻って来ないと。ダビデの主への信仰だった。

私たちの日々はどうだろう。自分の願いは願いとして、主に熱心に祈るべきだ。しかし、もしその願いが、主の御心で無かったなら「ノー」の答えとして、受け入れられるよう祈ろう。ダビデは主からの「ノー」を受け入れた。時として、強い願いであっても、御心に叶わないことがある。「ノー」の答えは、嬉しくないし、悲しく痛い。しかし、今はわからないが。私たちへの最善の答えだ。受け入れられないなら、そう出来るよう祈ろう。主は助けて下さる。道が閉ざされかたのように感じるが、霊的には一段階成長が与えられる。
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ノーと御心が示されたのなら辛いけれど、閉ざされた事実を受け入れられるようまた新たな気持ちで向きを変え、今から歩んで行く勇気も与えられるよう祈ろう。