2012年11月19日(月)

「主はその母親を見てかわいそうに思い、『泣かなくてもよい』ルカ7:13    



やもめである母親の一人息子が、死んでかつぎ出されるところに、主は遭遇された。やもめの上に、たった一人の息子を失うとは、母親は、どん底の悲しみ、絶望であったろう。死だけは容赦なく立ちはだかり、後戻りも回復も不可能だ。何もかもが打ち砕かれてしまった状況だ。当時のやもめは、社会的に厳しい状況にあり、唯一頼りであった息子、そして生き甲斐であった息子を失うとは。

心引き裂かれる、はらわた裂かれる思いだったろう。生きる望み、支えが無くなってしまった。泣き続けていた。そこに、主が「泣かなくてもよい」と御声をかけられた。「かわいそうに思い」「深い同情をよせられ」「憐れまれ」とあり、強烈な同情だ。腹の底からの憐れみが湧き出で、溢れ出て、主は青年を癒された。

母親から頼まれてではなく、一方的に主の溢れ出る憐れみによってであった。「青年よ。起きなさい」の言葉で、青年は生き返った。主は口先でなく、「深い同情」と共に「力」を持っておられる。「泣かなくてもよい」はその通りに実現し成就した。同じ主が、今、悲しみのどん底に、絶望にある私たちに、腹の底からの同情を寄せていて下さる。

そして、主の御口から出る言葉は、私たちの心に奇跡を起こし、揺るぎない「平安」をもたらす。「彼を母親に返された」取り返し不能、完全に失ってしまった状況に、決定的解決を与えられた。この同じ主が、今、あなたの目の前におられる。
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辛い問題に遭遇した時、信仰を持っているのだから平安に、と自分を納得させようとするが、思い煩い、落ち込んでいる私達を、まず「かわいそうに」と主は深い同情を寄せて下さる。ありのままで主に向いておられるとは、なんと幸いだろう。