2013年02月17日(日)

「どうか今、ほかのすべての国民のように、私たちをさばく王を立 ててください」Tサムエル8:5



イスラエルの民は、他国民のように、自分たちにもどうしても王が
欲しいと要求した。それはサムエルの気に入らなかった。民は、主
の御心に反する事を知った上で、警告に関わらず、尚も求めた。そ
の時、主は与えられた。

そこで選ばれたのがサウル王であった。最初は忠実であったが、や
がてダビデの登場で、人々の関心がダビデに移った時に、本来の姿
が現れた。女たちが「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った」と
歌うのを聞き、ダビデへの激しい妬みに燃えた。

サウルは、その嫉妬心が高じて、憎しみとなり、殺意へと向かった。
実際にダビデ殺害を試みる。どんな時にも悔い改め、主に助けを求
めれば良かったのだが、そうしないサウルから、主の霊は離れた。
民は王を欲しがり、サウルは人の評価、栄誉、人の賞賛を欲しがっ
た。

そして、サウルに命をつけ狙われ、恐れ、苦しんだダビデであった
が、ダビデもバテシバを欲しがった。姦淫の罪を犯し、更に夫ウリ
ヤ殺害の罪を重ねた。ダビデはその罪を隠ぺいするが、主がナタン
を遣わし、ナタンによって断罪した時に、ダビデは真に悔い改めた。

各々が御心に反するものを欲しがり、厳しい刈り取りに至った。肉
の欲望は悲惨な結果を生む。主が各自に備えておられる御心を求め
て歩むなら、どんなに祝福だろう。そこには主の愛があり、主の愛
を更に豊かに知って行ける。最善のご計画があり、主と一つになっ
て歩める。どんなに祝福に満ちた人生だろう。

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自分が、欲しがっているものは何だろう?自分の欲望が叶うなら、
自分の心は満たされ、幸せになれると思うが、そうではない。どこ
まで行っても満足と喜びは無い。主が喜ばれること、主の御心を求
めて行く時に、私たちの心は喜びと安堵に満ちる。