2013年05月20日(月)



「『もう航海は危険であったので、パウロは人々に注意して・・危害と大きな損失が及ぶと、私は考えます』と言った」使徒27:8

「良い港」に着いた時、もう冬に向かうので、パウロは「この航海は危険」とはっきりと人々に注意した。冬の地中海は大荒れになり、航海を続行すれば、船体は壊れ、命にも危険が及ぶと。「しかし百人隊長は、パウロのことばよりも、航海士や船長のほうを信用した」。彼らはプロであり、その道の専門家であり、素人のパウロに何がわかるとの態度だったろう。

又、この港は冬を過ごすのに適していないと思えたため、大多数の者は、クレテの港まで行って、冬を過ごしたいとの意見だった。その方が妥当に思えたので、見える所に従い、先に進んだ。しかしこれが霊的に致命傷であり、大暴風に巻き込まれ、悲惨な事になった。船は風に逆って進めず、仕方なく吹き流されるがままになった。

「人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である」。専門家が良いと言い、状況も良さそうに見える。自分も良いと思える。それで進んで失敗したという経験を持つだろう。一番大切な事は主の御心であり、御言葉の指針だ。御言葉は羅針盤だ。でなければ、暴風にほんろうされ、世に流されるがままになってしまう。

今、主と御言葉が吹き飛んで、目に良く見える、肉の方向に流されていないだろうか。それなら「この航海は危険」だ。御声に耳を傾けよう。又、御霊に示されたなら、パウロのようにはっきりと「私は〜考えます」と言う事も大切だ。
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世の人の姿や、目の前の言葉に私達も影響され生きているが、聞くべき御言葉を与えられ、問うべきお方が共にいて下さる事はなんと感謝だろう。順境にも逆境にも、御言葉からの確信を得て「私は考えます」と言いたい。