2013年11月19日(火) 「とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう」マタイ7:11
「とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう」マタイ7:11
主は、「求めなさい。そうすれば与えられます」と求めるように言われている。そして、「あなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう」と。主は、祈りにより求める者に、良いものを与えて下さる。祈りの答えに、「イエス」「ノー」「待て」があると言われている。 「イエス」は自分が願った通りに答えられること。「ノー」は、願い通りにならないこと。「待て」は、時を待つ必要があるということだ。よく言われるのが、食べ物が無い、貧しい国の人々に、米や野菜を上げるのは良い。が、それよりも更に良いのは、米の作り方、野菜の作り方を教えることだ。そうするなら、今後飢えた時には、自分で対応して行ける。 同じように、主も、即、祈りに答えるよりも、時間をかけて答える事を通して、遙かに良いものを与えて下さろうとしている。つまり、霊的成長のための訓練、鍛錬であり、品性が練られる事による人格的成長であり、忍耐により信仰を成長させることだ。単純な目の前の答えよりも、計り知れない益だ。思い通りにならない事態によって、信仰が練られて成長する。 忍耐の無い所に、信仰の成長は無い。すべてが目に見えたなら、信仰など必要無くなる。今、「待て」の祈りの答えなら、大きな祝福だ。主が目を留め、成長に導こうとされている。 -------- ノーの答えも、待てとの答えも、最善を与えて下さる神の答えとしてそこから学びたい。最善の時に、はるかに良い祝福が備えられている。今はその途上だ。ふり返る時、必ず感謝に溢れる。