2013年12月20日(金)

「今は、父よ。みそばで、わたしを栄光で輝かせてください」ヨハネ17:5



主は、十字架の死の前に「父よ、時が来ました・・子の栄光を現して下さい」と祈られた。この上ない残酷で凄惨な死に、栄光が現れるようにと。一見、敗北、悲惨、無力にしか見えない。「どこが栄光?これが神の子?」と惨めで哀れな姿、その苦しみが神の栄光である事を、主は知っておられた。両手両足を釘づけられて、さらされた姿で、何の抵抗も出来ない。なされるがままであり、これこそ無力の極みだ。

しかしこれが栄光だと言われている。「栄光」と聞くと、大成功、うまく行く事、喜ばしい事、失敗の反対を思い浮かべないだろうか。受験は合格、畑は豊作、子供は良い子、立身出世、商売繁盛、夫婦円満、こういう事が栄光だと思っていないか。しかし、十字架刑が「わたしの栄光を彼らが見る」「わたしを栄光で輝かせて下さい」と言われた「栄光」であった。

大成功だけが栄光なのではない。どんな状況でも、それが悲惨なものであっても、又、失敗であっても、そこで、あなたが御霊に従うなら、神はあなたを通して「栄光」を現わされる。姦淫と殺人罪はどうだろう。栄光の正反対だ。しかし、真摯に悔い改めたダビデは、素晴らしい栄光のために用いられた。ヘブル11章の信仰の人に名を連ね、ダビデの詩編にどんなに私達は慰め、癒され、引き上げられただろう。どんな状況であれ、そこで明け渡して、御霊の導きに従おう。その時、主の栄光を現わして下さる。
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失敗した姿であっても主に従っているなら、そこに主の栄光が現れるとはなんと幸いだろう。大成功の喜びの中だけに神様を証しがちだがどんな中でも主の力に被われている。明け渡していこう。