2014年07月20日(日)

「あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことの ための計らいとなさいました」創世記50:20 


ヨセフは、兄たちの妬みによる悪意で、隊商に売られてしまい、エ
ジプトへ。父から離され、見知らぬ地へなど、どん底に落とされた
事だろう。紆余曲折があり、結果的に、飢饉から家族の命を救うこ
とになる。

ヨセフは兄たちでなく、実は「神が」私を遣わされたと言った。神
は、私たちの身に起こった最悪の出来事を、良いものに変えて下さ
る。何と感謝なことだろう。時に、人から、悪を計られることがあ
る。しかし、それをも、神は良いことのための計らいとされる。

そのため、人から何かされることがあっても、まず落ち着いて、事
態の経過、行方を見て行けばよい。そこに神がおられ、神が働かれ
るからだ。良きことにされる、祝福を信じて行けるとは何と幸いだ
ろう。状況がどうであれ、信仰による平安が与えられて、生きて行
ける。

しかし、私たちは、そこに神を見るのでなく、自分が思う最善が、
自分の幸せだと思っている。だから自分の思い通りに物事が行くと、
幸せであり、満足する。反対に、自分の思い通りにならないと、い
ら立ち、幸せなど到底感じることができない。不満でいっぱいだ。

問題の根に「自分中心」がある。自分の思い、自分の計画、自分の
価値観、それを大切に握っているので、妨げとなり神視点に立って
見れなくなってしまう。そこを明け渡して行く時に、神視点に移っ
て行く。

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目に見るところは、兄たちの悪意によるしわざだったが、信仰に立
つと、「神が」そうされたと受け取れる。そして、パズルがつなが
るように、そこを通されたこと、親族の命が救われるためであった
こと、壮大なご計画の内にあったことがわかる。