2014年10月20日(月)

「その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます」ヨハネ16:8




 ある人は、小さい時からまじめで、努力家で、何でも一生懸命に
頑張り、優等生だった。見るからに頑張りやさんだった。少々何か
があっても、弱音を吐かず、何とか頑張りで、やって来た。それで、
自分でも、良い人間だと思っていた。何でも、頑張ればできると思
っていた。そんな中、友人に教会に誘われた。特に、嫌ではないの
で、行ってみた。

続けて通うが、自分には「罪」ということがよくわからなかった。
怠けることなく、何でも一生懸命やり、嫌なことでも逃げずに取り
組み、頑張る、自分は良い人間としか思えなかった。教会で、聖書
の学びを続けていた中、ある時、放とう息子の箇所だった。弟息子
が、父の財産をもらい受け、家を出て、放とう三昧したあげく、無
一文になって父親のもとへ戻って来た。

父親は、無条件の愛で息子を受け入れた。その時、兄息子は、自分
の好き勝手をして、財産使い果たして戻った弟、そのために、宴会
とは何事かと、怒りと不満爆発した。怒りで、家に入ろうともしな
かった。行方不明の実弟が戻って来たのに、喜ぶどころか、さばき
と怒りだ。その兄息子に自分の姿が重なった。

表向き良い顔をしながら、心の中では、自分は立派な正しい人間で、
出来ない人、ぐずぐずしている人、弱い人をずっと上から見下し、
さばいていた。自分の罪をはっきりと見せられ、この罪のための十
字架であることを示された。悔い改め、主を信じるに至った。
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御霊の慰めや励まし、支えがなければ、一人で頑張る放蕩息子の兄
もマルタも自分の姿だ。罪につき義につき判断基準は人ではなく、
御霊からの助けと導きだ。