2015年03月20日(金)

「あからさまに責めるのは、ひそかに愛するのにまさる」箴言27:5





御言葉には、対人関係での問題の、具体的な取り扱い方が示されて
いる。相手に罪があれば、まず「ふたりだけのところで責めなさい」
と。当の相手でなく、関係の無い第三者のもとへ行き、当事者をあ
れこれ批判し、罪に定めるのは良くない。巡り巡って当事者の耳に
届く。そうすると誤解が生じ、感情的にこじれ、余計問題がややこ
しくなる。

当時、罪を犯した人は、大勢の人々の前で責められた。姦淫の現場
で捕らえられた女性も、大勢の人々の前で断罪された。しかし、主
は、彼女に一対一で向き合われた。「ふたりだけのところで責める」
とは、相手の人格を尊び、大切に扱うことだ。それが罪を指摘する
ことができる、信頼関係が土台となる。人前で責められると、心を
閉ざしてしまう。

そして責める目的は「兄弟を得る」ためだ。単に裁くためでなく、
関係を建て上げ、培い、深めて行くためだ。罪を責める動機はどう
だろう。「愛」によらず、単に自己正義、義憤だけなら、更に関係
を悪化させてしまう。「愛がないなら、やかましいどらや、うるさ
いシンバルと同じです」。何一つ言葉が心に響かない。何も成し遂
げない。

主の動機はどこまでも「愛」だ。「もし誰かが過ちに陥ったなら、
御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさ
い」よくよく祈って御霊に導かれて、愛によって対応する時、その
言葉は用いられる。
-----------
そこに裁く気持ちはないだろうか。よく祈り整えられて対応したい。
無責任な気持ちは言葉に表れる。愛が動機であるか、相手を傷つけ
ないよう、まず吟味してみよう。