2015年09月19日(土) 「ヨセフという、議員のひとりで、りっぱな、正しい人がいた・・こ の人が、ピラトのところに行って、イエスのからだの下げ渡しを願 った」ルカ23:50
「ヨセフという、議員のひとりで、りっぱな、正しい人がいた・・こ の人が、ピラトのところに行って、イエスのからだの下げ渡しを願 った」ルカ23:50
十字架で息を引き取った主を、アリマタヤのヨセフが引き取り、亜 麻布で包み、新しい墓に、主を埋葬した。丁寧に葬られることで、 「罪のために死なれたこと」「葬られたこと」が明確な事とされた。 ヨセフは、ピラトのもとへ行き、遺体の引き渡しを願った。彼はサ ンヒドリンの議員であり、社会的地位のある人だった。 議員達は皆、主の処刑を願った。その中で、そういう行動は、地位 をも危うくするかも知れず、しかしピラトの前に出て、申し出た。 ヨセフは「立派な正しい人」「議員たちの計画や行動には同意しな かった」「神の国を待ち望んでいた」「彼もイエスの弟子になって いた」とある。 「イエスの弟子ではあったがユダヤ人を恐れてそのことを隠してい たアリマタヤのヨセフ」、信仰を公にしない、隠れ信者だった。そ のヨセフが、勇気を出して、遺体引き取りを申し出た。十字架を見 つめて、十字架の前に立った時に、表明しようと決意した。彼の信 仰であり、真実な思いだったろう。彼にできる事をした。そして信 仰を公にする機会となった。 ある人は、信仰について親の強固な反対があった。恐れと思い煩い でいっぱいだった。しかし、十字架が迫った時に心溶かされ、犠牲 を払う覚悟で、主の御前に信仰告白をした。その時に、心は平安で 満たされた。その後、主は両親との関係も良くして下さった。主の 十字架を前にする時、自分自身も、自分にできる事、決意する事が 示されだろうか。勇気をもって従おう。 ・・・・・・・・・・・・ じっと目をそらさず、主の十字架を見つめ続ける時、心に与えられ る思いは何だろう。新しい一歩前進か、何か献げるものか、払うべ き犠牲か、それとも砕かれた心でへりくだる事だろうか。示しの通 りに従う時、大きな平安を経験する。