2015年12月20日(日)

「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありま せん。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります」ガラ テヤ6:7


神は十字架の贖いにより、罪を赦して下さる。自分の犯した罪は、
悔い改める時に完全に赦される。神は無かった事として見て下さる。
その罪が、主の上に置かれたからだ。主のゆえに完璧に赦される。
しかし、罪が赦される事と、罪の結果を刈り取る事は別のことだ。
罪は赦されるが、罪の結果から逃れられるのではない。必ず刈り取
ることになる。

だが、罪が赦されたからこそ、赦しを受け取ったからこそ、主と共
に刈り取って行ける。だからどうせ赦されるのだからと、罪を軽く
見てはならない。軽い気持ちで罪を犯してはならない。刈り取りは
決して甘いものではない。しかし、主と共に刈り取る時、それを訓
練として用い、更に成長を与えて下さる。どこまでも益とされる。

ダビデも自らの罪の刈り取りをした。ダビデに生まれた子は死んだ。
ダビデの妻たちは他の者に汚され、ダビデの息子たちも死んだ。苦
しい刈り取りであった。罪を軽く見てはならない。罪は赦されるが、
自らの罪の結果に、家族をも巻き込むことになってしまう。自分自
身だけにとどまらない。

罪は重大な深刻なものだ。しかし、尚も神のあわれみは尽きない。
姦淫の罪によるバテシバとの結婚であったにもかかわらず、その間
に生まれたソロモンを次の王とし、神の家を建てる者とされた。

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蒔き刈りの法則があり、蒔いたものは刈り取る。御霊の導きに従い
蒔くと、実を刈り取り、罪に蒔くと痛い刈り取りをする。しかし、
主はどこまでも〃あわれみ深く、悔い改めて、主と共に刈り取る時、
それもまた訓練とし、祝福として下さる。あわれみは尽きない。