2017年06月19日(月)

「やもめとなった母親のひとり息子が、死んでかつぎ出されたところであった・・主はその母親を見てかわいそうに思い・・」ルカ7:12


この女性は、「やもめ」とあり、夫が亡くなっていた。この事だけ
でも、当時の社会では、大変なことだった。計り知れぬ苦労を重ね
て来た事だろう。ところがその女性の「一人息子」が亡くなってし
まった。彼女にとって、この息子は大切な生き甲斐であり、支え、
希望、いのちそのものであったろう。

息子がいたからこそ、どんな苦労にも耐えることができた。息子は
生きて行く上での拠り所であった事だろう。今や、そのたった一人
の息子が亡くなってしまった。病気ならまだ治るかも知れない、物
質的、金銭的なものなら、何とかなると思える。しかし、死だけは
どうにもならない。

無情にも一切のものを断ち切ってしまう。どうにも取り返しがつか
ない事態だ。人間はこの死の前には徹底的に無力だ。望みのすべて
を打ち砕かれ、人間には何もなし得ない。まさに絶望だ。生きる支
えを、希望を失ってしまった彼女は、悲しみのどん底にいた。

大勢付き添っていた町の人々も、死の前には全くの無力であった。
なすすべ無かった。そこに主が通りかかられ、この母親を見て、
「泣かなくてもよい」と言われた。何と愛とあわれみに満ちた言葉
だろう。主の動機は「かわいそうに思い」であり、同情に突き動か
され、青年を生き返らせて、母親に返された。

彼女は、絶望の淵から一転、大きな喜びへと変えられた。この力あ
る主が、私たちをもあわれみ、同情していて下さる。なすすべのな
い目の前の事態を主のもとへ持って行こう。深くあわれんでいて下
さる主は、あなたの目の前の事態を導いて下さる。
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主は深い同情心をもってこの地上を歩まれた。同じように今も心を
痛めあわれみの眼差しを注いでくださっている。この主に大胆に近
づき祈り訴えていこう。クリスチャンにとって絶望的な絶対は無い。