2019年04月19日(金)

「・・神の使信のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実どおりに神のことばとして受け入れてくれたからです」Tテサロニケ2:13



聖書を読む時、どうだろう。「愛している」「慈しみ深い」「あわ
れみは尽きない」「高価で尊い」「赦されている」「罪しない」そ
んな御言葉は、非常に心地良くて大好きだが、弱さ、醜さ、罪を指
摘されたり、矯正されたり、悔い改めよとの御言葉は、痛くて避け
てしまうだろうか。つい耳をふさいでしまう。

だが心地良い言葉、自分に都合の良い言葉だけを求めるなら、成長
する事は出来ない。いつまでも幼な子のままだ。私たちの成長は、
神の言葉にかかっている。御言葉が気持ち良く、感動的だからでな
く、都合良かろうが、悪かろうが、正面から受け止めて行くところ
にある。神の言葉によって内側が変えられて行く。

人間の言葉でなく、神の言葉として厳粛に受け止めて行く時、心が
変えられ、そして必ず生活が変えられて行く。神の言葉は、種その
ものだ。心に素直に受け入れられると、発芽し、花が咲き、実がな
る。しかし決してオートマティクではない。種を素直にしっかりと
受け入れる、受け入れ側、土壌が大事だ。その時にだけ、種は働い
て、実を結ぶ。

「この神のことばは、信じているあなたがたの内に働いているので
す」とあり、逆に言えば、神のことばを信じなければ、働く事がで
きない。信じる者に働くことになる。痛いと避けて、スルーしたく
なるが、神の言葉を素直に受け入れられるよう祈ろう。そして一つ
一つの示しに従って行こう。その度に神のみわざを見、そして信頼
関係が深められて行き、成長して行ける。
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与えられた御言葉を頼っていく時に経験する御言葉のいのちと力は、
耳に痛い御言葉でも同じのはず。無理だと流す前に主にできません
と祈りにもっていこう。