2019年08月19日(月)

「しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません」ガラテヤ5:18



ある人に、どうしても受け入れ難い、好きになれない相手がいた。
なぜそういう行動を取るのかが、理解できず、受け入れられない思
いでいた。そんな相手に突如の厳しい試練が臨み、共通の知人から
祈りの要請が回って来た。大変な試練だと思うのだが、祈れない。
その苦しい状況も、自業自得だと思ってしまう。そのように行動す
れば、そういう結果を刈り取るではないかと、批判的な目でしか見
れない。

自分の心が頑なで、自我だとわかるが、どうしても祈る気になれず、
悶々状態だった。でも、祈りの要請が来てるし、現状は大変で、主
は祈れと言っておられる。どうにもならず、心は苦しいばかりで、
とうとうあるがまま祈った。「主よ。祈れません。いえ、祈りたく
ありません。でも祈れと言われます。それで自分に出来る事として、
祈れない自分を明け渡します。助けて下さい」。

そして祈っていると、今の試練で、もし自分がその人の立場なら、
との思いが突然臨んだ。その時、自分なら絶対に耐えられないと思
った。その時、その人の置かれている状況の厳しさと、その人の苦
しみに思いが至った。涙が出て仕方がなかった。相手の助けと祝福
を心から祈っている自分に驚いた。それは自分ではなく、御霊だっ
た。

自分にどうにも出来ずに、明け渡した時に、御霊が働き、みわざを
して下さった。人に出来ない事が、主にはできる。御霊は肉に逆ら
い、肉は御霊に逆らうので、しようとする事が出来ない。自分自身
を主にお委ねしよう。その時、主が成して下さる。通り良き管とし
て、用いられる。自分自身も主を味わい知って行ける。
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自分が納得できないからという思いに肉はないだろうか。よく主に
祈り、唯一、御声を聞こう。主に愛されている恵みのゆえに人にも
優しくできる、自分には出来ないすこやかな歩みへ御霊は導いてく
ださる。