2020年08月20日(木)

「彼は言った。『主よ、私は信じます』そして彼はイエスを拝した」 ヨハネ9:38


主は、道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。すると泥を盲人
の目に塗り、シロアムの池で洗うようにと言われた。盲人がその通
りにすると、見えるようになった。旧約聖書によると、盲人の目が
開かれる事は、メシア到来のしるしだった。「・・そのとき、盲人
の目は開かれ・・」、それゆえ、この盲人が見えるようになった事
は、まさに預言の成就であって、心開かれていたなら、主イエスこ
そが救い主だとわかるはずだ。

しかしこの時、あるパリサイ人たちは、主が、安息日を破ったと非
難した。根が悪意であり、その目で人を、物事を見るなら、すべて
が攻撃材料となる。邪悪な心だ。正当な非難だと言うが、実は根に
ある敵対心のゆえだ。盲人に問いただすのだが、彼の言葉にも全く
聞く耳を持たない。盲人は自分の身に起きた事を、素直に率直に話
しているにかかわらず、はなから否定してかかる。

私たちもどうだろう。自分は正しいとの位置に立つ時、このような
状態に陥ってしまう。彼は、一つの事だけがわかると、的確にはっ
きりと言った。「盲目であったのに、今は見える」と。どうにも、
誰にも否定のしようのない事実だ。そして物理的にだけでなく、霊
の目が開かれ、神がわかるのだ。パリサイ人は自分の思い、自分の
目で見た。

「私たちはあの人が罪人であることを知っているのだ」と。最初か
らこうだと決めてかかり、そういう態度である以上、どんなみわざ
を見ても信じる事ができない。自らの思いを退けて、素直に主に向
き合うなら、「主よ、私は信じます」に必ず導かれる。
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もう知っているとの思いはどこまでも自分の側の思い込みだと知っ
ていたい。迷いやすい者をいつも主は心にかけて教えてくださる。
この主を見ていよう。