2022年11月19日(土)

「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれで あなたのおきてを学びました」詩篇119:71



ある人の証しだ。若い頃から教会に行っていたが、神の愛はわかっ
ておらず、自分にとって信仰とは「あれはダメ、これはダメ」の律
法ばかりで、窮屈なだけで、喜びも平安も無かった。段々、教会へ
行かなくなって、いつしか全く離れてしまった。堅苦しい戒めから
解放され、自由の身になったと思った。

しかし社会の厳しさの中で、別のこの世の様々な縛りに直面した。
仕事がうまく行かず、対人関係に苦しみ、トラブル続きでとうとう
身動き取れなくなってしまった。毎日が辛く、仕事を辞めようかと
思った。せっぱ詰まり、どうしてよいかわからない状況で、なぜか
ふと、聖書を思い出したのだ。

昔、読んだ聖書を取り出して読んでみた。求めていたのだと思う。
放蕩息子の箇所で、まさに自分の事だと涙が溢れて仕方が無かった。
初めて御言葉が頭でなく、心に入って来た。以前は、まるでわから
なかった神の愛が、初めて全身にしみいった。真実の愛を知った。
その時に、主に立ち返ることができた。主が喜んでいて下ることを
感じた。

順境にある時、問題無く、うまく行っている時、神のもとへはなか
なか行かない。神無しで十分やって行けて、神無しで幸せだと思え
るからだ。肉は甘くない。試練が感謝だ。神のもとへ導いてくれる。
多くの人があの時のあの苦しみが無ければ、神を求めていないと言
う。苦しみや悲しみは、私たちを神に向かわせてくれる。それは必
ず祝福へと変えられて行く。

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試練は、好きではないが、振り返る時、確かにそこに主が見えて、
これが無かったなら、どんなに大変な事になっていただろうと思う。
自分の内側を見せられ、悔い改めが与えられたり、主の助けや支え
を身を持って知れる。感謝が溢れる。