2023年08月20日(日)

「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです」 マタイ5:3 



「貧しい」という言葉自体がどうだろう。余り良い印象を受けない
だろうか。普通は、心の豊かな者が幸いなので、むしろ良くない印
象だろうか。私たちは、自分は、まあ貧しいが、そこまで貧しくな
いと思いたい。認めたくないものだ。しかし内側をよく探るとどう
だろう。突き詰めるなら、心底、他人に同情する事など出来るのだ
ろうか。自分の事だけで精一杯だ。身体の激痛で泣き叫んでいる時
に、人の事など考えられないように。

又、他人の喜びを、喜ぶ事ができるだろうか。ある人は同僚の昇進
が決して喜べなかったと。又、ある人は、入試に落ちて、合格した
友人が妬ましくて、どうにもならなかったと。又、別の人は、先の
見えない入院の中で、同室の退院して行く人が羨ましくてならず、
祝福などできなかったと。幸せな人を見ると、本当に喜べるのだろ
うか。自分はと、比較してしまうだろうか。

又、他人の事に真に関われない冷淡さがある。普段考える事なく、
突き詰めずにスルーしている。自分は良い人間であり、愛が無いな
どと認めたくない。そんなに冷たい人間ではないと思いたい。だか
ら、あえて見ない。無意識にそうしているなら、気づかない。しか
し霊の成長は、必ず現状を見せられて、「認める」事から始まる。

愛が無く、嫉妬深く、プライドの高い自分、破れ果てた真の自分の
姿を見せられ、認める時に、変えられて行く。自分がいかに貧しい
者であるかを知る時に、天の御国はその人のものだと。自らの無力
を知る者が、主の豊かな祝福を受け、満ち足らわせられる。

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自らの弱さ、ありのままの虚しい、何も無い姿を認めることが、心
の貧しい人だと言われている。それこそが幸いであり、天の御国を
持つと。そこまでひどくないと思いたいが、様々な時、又、状況の
中で真の姿を見せられる。しかしそれこそが祝福だと知る。