2023年11月19日(日)

「ペテロは言った。『たとい、ごいっしょに死ななければならない としても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。』 弟子たちはみなそう言った。」マタイ26:35


ペテロは、弟子たち皆が主を裏切っても、自分は決して裏切
らないと断言した。「私は」命をかけて、何があっても、どこまで
もついて行く。「私は」あなたを知らないなどと決して言わない。
「私は」何があっても大丈夫。そんな心意気だったろう。自信が
あり、自信満々であった。

ペテロは自分の弱さという事を知らなかった。又、「自分は」他の
弟子たちとは違う、そこに高慢が潜んでいた。「シモン眠っている
のか、まだ眠っているのか」との主の言葉の通り、ゲッセマネで、
主が祈りの厳しい苦闘の中、眠り込んでいた。主はご自分の姿を、
心の内を弟子たちの前にさらけ出され「わたしは悲しみのあまり
死ぬほどです。ここを離れないで目をさましていなさい」と、

弟子たちが一緒に祈ることを求め、願われた。主は、ご自分の弱
さを認められ、御父に拠り頼み、すがり、すべてを祈りに持って行
かれた。弱さを認めた、祈りの苦闘の中で勝利され、「立ちなさい。
さあ行くのです」と、十字架に向かって真っ直ぐに顔を向け、歩み出
された。主とペテロの違いは、ペテロは自分の弱さを知らない事だ
った。

弱さの自覚がないため、祈りが無かった。主は弱さを自覚され、切
に祈られた。眠気が問題なのでなく、「自らの弱さ」を知らない事
が致命傷だった。弱さを認めなければ、祈りの必要性が無い。弱い
からこそ、切に祈り、拠りすがるからだ。自自らの弱さを知ることに
より、初めて主に拠り頼み、祈ることができる。

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自分でやって行けると思うので、祈らないで歩んでしまう。そして
手痛い失敗を通して、学ばされる。自らの弱さを知らされ、頼る
ようにされる。砕かれて、主に拠りすがって行ける。主を離れて
自分で進んでいる時に、気づきが与えられたい。