2024年01月20日(土)

「ばらまいても、なお富む人があり、正当な支払いを惜しんでも、 かえって乏しくなる者がある。おおらかな人は肥え、人を潤す者 は自分も潤される。」箴言11:25



ガリラヤ湖と死海の有名な例えがある。死海は、ガリラヤ湖から
の水が流れ来て、溜まる一方で流す先がない。死海からの川が
ないからだ。受けるのみ、溜め込むばかりだ。流れ込む水は蒸
発する。それで死海の塩分は非常に濃くなる。この塩分濃度のた
め、魚が生息できず、周囲も砂漠で緑がない。

それにひきかえガリラヤ湖は、その上のフーレイ湖から流れて
来る水を受け、その水をどんどんヨルダン川に流している。受け
た水を常に出して、絶えず水が流れるので、ガリラヤ湖の水は
生きている。そのため様々な魚類が生き生きと生息し、周囲も
草木が茂り、緑が豊かだ。

私たちはどうだろう。受けるばかりだろうか。溜め込むだけなら、
腐って死に絶えて来る。与えられたものを流すと、又、次々と与
えられて、いつも新鮮で、生き生きと霊的喜びが流れる。与えら
れた恵みを証しすると、人の益となり、自分自身にも喜びがあり、
又、証しすべき恵みが加えられる。

与えられている富、時間、賜物・・握りしめて溜め込んでいるなら
腐って来る。喜びも無い。それを、神に、人に献げて行くと、又、
更に増し加えられ、霊的喜びの流れが止まる事がない。人生何
のために生きているのだろう。蓄えるためだろうか。

それとも主の素晴らしさを知るためだろうか。溜め込んで煮詰ま
っていないだろうか。主の御心にそって、手にあるものを献げよ
う。又与えられて、人にも自分にも祝福とされる。

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二人の主人に仕えられない。肉とサタンは不安を与え握りしめさ
せる。与えられた、任されているもの、賜物を、御霊の導きの通
りに献げて行く時に、主の栄光が現われ、必ず主を新たに知り、
霊的な祝福にあずかる。