2024年02月18日(日)

「イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなの を知って、彼に言われた。『よくなりたいか。』」ヨハネ5:6


アルコール依存症の人は、どこに行っても、飲酒の誘惑があるから、
止められないのだと言う。又、ギャンブル依存症の人も、ギャンブ
ルがあるから悪いのだと言う。つまり、環境が悪いのだと。しかし
同じ環境にいて、アルコール依存症にもギャンブル依存症にもなら
ない大勢の人々がいる。

これは環境のせいなどでは無いという事だ。何が問題なのだろう。
私達も形は違うが、同様だ。止められない習慣の底にあるものは、
何だろう。止めたくない自分なのだ。止められないのでなく、止
めたくない。心配症、思い煩い症の人がいるが、思い煩っていた
い。思い煩いがないと不安で、思い煩って安心する。思い煩い依
存だ。

おかしな話だが、心の底を正直にみると、そうなのだ。主はいつ
でも、ベテスダの男性のように「よくなりたいか」と問うていて
下さる。出来るかとは問われない。「そうしたいか」だ。本当に
良くなりたいかどうかだ。建前でなく本音はどうなのだろう。良
くなりたいのだろうか。

環境のせいにせず、人のせいにせず、自らの罪を認め、無力を認
める時、主は癒しを与えて下さる。しばしば、罪を憎んでいない。
罪を楽しんで愛している。罪には快楽があるので心地良い。罪を
憎まなくては、主を愛することはできない。本音の部分を御霊に
照らして頂いて、そのまま主に向き合おう

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良くなると労働しないといけない。人々の見方も変わり、社会的責
任も生じ、楽でない面も出て来る。形は違うが、霊的な面であいま
いにしておきたい心があるかも知れない。突き詰めたくないだろう
か。主を求める心へと導かれるよう祈りたい。