2025年04月20日(日)

「私は、神の聖所に入り、ついに、彼らの最後を悟った。まことに、 あなたは彼らをすべりやすい所に置き、彼らを滅びに突き落とさ れます」詩篇73:17



詩篇記者は、悪者が富を増し、安らかであり、栄えるのを見て
落ち込んだ。「なぜ?悪者が?」彼らは楽しげで、安泰で、豊
かで、何の苦しみのなさそうだ。それなのに、主を信じる自分
は苦しみばかりで、辛くて、惨めで、何の良い事もない。この
足はたわみそうで、歩みは滑るばかりだと。一体どういう事な
のか。

なぜ神を信じない者が楽しく、栄えるのか。だが、そう思うのは
「誇り高ぶる者を妬んだ」からであり、自らの「妬み」から来てい
た。そしてその妬みは、人との比較から来るのであり、主から目
を離して、人を見ていたからだった。信仰生活で、平安や喜びが
失せるのは、負の状況の問題ではなく、目が主以外のものを見
ている。問題、人、自分を見ている。

その底には、富への欲求、人からの賞賛を求め、それを愛する
心がある。それが羨望となって出る。それは、主に焦点が合っ
ていないので、その結果、様々な不満や愚痴、イラ立ちでいっ
ぱいになる。喜びがなく虚しい。しかし彼は聖所に入った時に、
光が臨んだ。心荒み、悶々状態の原因は、目の前の状況では
なく、主と自分の関係にあると悟った。

主から心が離れているから、喜びと平安が無いのだと。今、平
安が無いなら、目の前の苦しい問題のせいと思ってしまうが、
それは関係無い。心が主以外に向いていないか。逆にどんな
困難な中でも、主との親しい交わりにいるなら、不思議な平安
に守られる。主を信頼しているからだ。

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主を知りながら、世をも求めて行くと、心は平安も喜びも無く
辛い。世の人はそれなりに平安の中、中途半端の信仰者が
最も惨めだ。主のもとへ行こう。主が御霊の喜びと平安を
下さる。真の幸せを下さる。