2004年05月20日(木)

私の身に起こったことがかえって福音を前進させることになった」(ピリピ1:12)

パウロとシラスは信仰のゆえに、迫害に会いピリピの牢獄に捕らえられた。何も悪い事をしていない。薄暗い牢獄で足かせをはめられ、むち打たれた身体は激しい痛みが襲った事だろう。神に従っているのに、なぜこんな事が?と疑いや不満で気落ちしただろうか。いや、彼らは現実を受け入れ、神に祈り賛美したのだ。結果的に看守家族が救いに導かれた。私達は信仰生活の中で様々な試練に会う。病や経済的危機や離別、倒産、対人関係のあつれき、その時、自己憐憫やすねたりひがんだり、心の屈折に陥るのはたやすい。しかし、困難の中で、尚も神を信じ賛美して行く時、神の栄光を現わして行く。肢体不自由の中で、厳しい環境の中で、尚も神を信じて喜んで賛美している人々がいる。生きた証しは人々の心に響く。自己憐憫で終るか、神の栄光か、あなたの選択にかかっている。
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こんな事がなぜ?と思う事が起こるが、結果的に、証しになり、福音を前進させる事になる。もし、事態の背後におられる神を認めて、心を屈折させる事なく、信仰持って受け入れて行くなら。サタンに耳を貸す事なく、信仰的態度を選び取って行けるように