2006年08月20日(日)

「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります」ガラテヤ6:7


罪には快楽が伴う。その瞬間は楽しい。心地
よい。苦くなく楽しいのだ。でなければ、罪
に関するこれほど多くの問題は起こらない。
罪と戯れる事は快感であり、歓びなのだ。悪
魔はそう惑わす。実は苦しい結実を招くが、
それはきれいにおおい隠して欺く。罪を良い
もの、麗しいもの、賢いものに見せる。御心
からそれているに関わらず、万事うまく行っ
ていて、人生は楽しく、幸せだと思っている。
一見楽しく幸せなので、騙されてしまう。こ
れは罪には快楽があるゆえだ。特に罪に見え
ない事に要注意だ。仕事や趣味に没頭して神
から離れていても罪意識が無い。良い事だか
らだ。しかし、必ず刈り取る事になる。これ
に例外はいっさいない。蒔いたものは刈り取
る。「肉から滅びを刈り取る」とは、必ず苦
しい結果を招くという事だ。私達は、自分の
した事には責任を取らねばならない。肉に蒔
かない事だ。しかし、失敗しても、尚もそれ
すらも、益として下さる。苦しいがきちんと
刈り取って行く事が、実は一番の祝福なのだ。
刈り取りの中でこそ、神の愛や恵みがいかばかり
かを知れるのだから。
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悔い改めた刈り取りは、訓練となって返り、
砕かれ練られて、成長へと導かれる。放っ
ておかれたなら、自己中心で自分勝手な者
が神を畏れる事を学ぶ。どこまでも憐れみ
深いお方。