2007年10月20日(土)

「自分の分を取って帰りなさい。ただ私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです」マタイ20:14

ぶどう園の主人は働き人を募集した。早朝
から5時まで5回も募った。最後の者など、
もう仕事になどならない。主人は、彼らに
最後までチャンスを与えたかったに違いな
い。怠けていたのではなく、今日一日の糧
を不安に思い、思い煩いながら、待ってい
た事だろう。これは主人のあわれみであり、
愛だ。夕方になり、主人は最後の者から順
に、賃金を払うように言った。最初の者か
ら払うなら何の問題も無かった。貰った順
に去って行くからだ。それなら喜んで感謝
して満ち足りて、最初の者達は帰ったであ
ろう。ところがあえて、逆にし、皆に支払
われた賃金を見届ける事になった。最初か
ら12時間暑さの中で働いた者と、1時間
の者が同額である事に、不満と怒りが爆発
した。働きたくても、雇用されないなら働
けない。主人が雇ってくれて、働けたこと、
朝一番からその日の糧が約束されていて、
何の不安も恐れもなく、平安に働けた事、
そんな恵みと感謝がすべて吹っ飛んだ。主
人は約束をきちんと果たし、何の不当な事
もしていない。「あなたの目にはねたまし
く思われるのですか」。私達もどうだろう。
「自分の分を取る」のでなく自分の分を忘
れ、自分が何様と思い上がってしまう時、
何もかもが当然の権利となり、奢り高ぶっ
てしまう。何も見えなくなり、道をそれて
しまう。すべてが恵みから始まったことに、
今一度立ち返ろう。
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「私がいったい何者であり、私の家が何で
あるからというので、ここまで私を導いて下
さったのですか」自分が何者でもないことに
目が向く時に、感謝が湧き溢れる。水が低い
方にしか流れないように、恵みも同じだ。