2008年04月17日(木)

「やめよ。わたしこそ神であることを知れ。わたしは国々の間であがめられ、地の上であがめられる」詩篇46:10

祈れど、祈れど、祈りが答えられない
経験があるだろうか。罪は祈りを妨げ
るので、まず罪を吟味する必要がある
が、罪が無いのに祈りが答えられない
事がある。辛い状況を何とかしてほし
いと祈るが、事態は全く変わらない。
それどころか、もっと悪くなって行っ
たりする。神は聞いて下さっているの
かと落ち込む。詩篇記者達も苦しい中
で「なぜですか」と、神に祈りの中で
訴えている。しかし、そのような切実
な悶々状態の中で、あるがままを神に
投げかけて行く事で、神ご自身に触れ
て行く。主を親しく知って行く。「わ
たしこそ神」「たじろぐな。わたしが
あなたの神」であられる真実なお方に
出会って行く。単に自分の悩みが無く
なるのでなく、ご自身を現して下さる
のだ。ただ単に問題の解決より、遙か
に恵まれ心満たすものだ。祈りが聞か
れない中にも、神の様々なご計画があ
り、又、配慮がある。聞かれない事を
通して、事が違う方向へ向いたり、変
更が生じる。しかし、その中に更に良
きものが備えられている。あの祈りが
答えられなくて良かったと、必ず思う
日が来る。もし、あれが自分の思い通
りになっていたら、今の自分は無い、
自分はどんなに高ぶっていたであろう
と。祈りが答えられないと失望する事
はない。神ご自身を知る時とされる。
そして、その祈りは違う形で答えられ
ている。
---------------------
神様を神として崇め、信頼しているな
ら祈りが叶えらても、そうでなくても平
安があり喜びがある。まず自分、では
ない。順序が逆転しているなら、みこ
ころがわからなくなる。