2009年01月19日(月)

『「わたしは主に対して罪を犯した」ナタンはダビデに言った「主もまた、あなたの罪を見過ごしてくださった」』Uサムエル12:13



ダビデはバテシバと姦淫し、それを隠ぺいするために、夫であるウリヤを殺害した。自分はトップであり、すべて意のままであり誰一人自分に指図する者はない。

その地位ゆえに、この犯罪を隠しおおした。しかし、人の目に知らぬ存ぜぬで通せても、神の目には裸であり、神は見ておられた。

罪を隠していた間、激しい苦悶にうめいていた。神の御手だ。
「1日中うめき、骨々は疲れ果て、骨髄はひでりでかわききった」。

心はカラカラにかわいて苦しんだ。主は捨て置かれず、預言者ナタンを送られた。富者が貧者の大切な唯一の子羊を奪った話をすると、ダビデは「そんな男は死刑だ!」と激しい怒りに燃え叫んだ。

それこそまさに自分だと気づかなかった。ここから見る事ができる。
自分に密かな罪があり、その罪が赦されていない時、他者に対して非常に厳しくなる。

他者を厳しく糾弾する。自分が主からの赦しを受け取っていないと、他者を責めさばく。なぜさばくのか。無意識の中で、自分の罪に自分が責められているからだ。

それが他者に向かう。ダビデは即、悔い改めた。自由と喜びと平安が戻った。
主は豊かに赦して下さる。自分自身が溢れる赦しを受け取り、赦されて赦されて歩むからこそ他者を赦す事ができる。さばく者でなく赦す者へと変えられる。
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隠しておきたい罪を認めなけれな赦されようがない。良い者にはなれない自分を認め、御前に悔いる時に必ず赦されるとは、なんという感謝か。