2009年02月17日(火)

「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです」Tヨハネ4:10



初めの愛とは、神が、私たちを、愛して下さった愛のことだ。私たちが、神を愛する愛ではなく、又、人を愛する愛ではない。まず、初めに神だ。

この順序が狂うと、愛することがしんどくなり、重荷になる。
御言葉を行なうこと、戒めを守ることは、大きな重荷であり、苦痛になる。

しんどいばかりで、油の切れた機械のようだ。まず受けることだ。神を愛する前に、人を愛する前に、十分に神の愛を受け取ることが大切だ。

「私達は愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです」神がまず無条件で、犠牲愛で、一方的な与える愛で愛して下さった。

ザアカイは、虚しい、喜びのない、満たされない心で、木に登る事までして、必死に主を求めた。その時、「ザアカイ」と名を呼ばれ、「あなたの家に泊まる」
と。

まず罪を責められ、戒められるのでなく、罪人のザアカイを全面的に受け入れて下さった。主の無条件の愛を受けた。その時、ザアカイに悔い改めが起こり、具体的行動となって表れた。

自分の事だけに生きて来たザアカイが、財産の半分を貧しい人に施すという貧しい人を顧みる心が生まれた。

騙し取った物も償った。愛するとは何かをする事以前に、まず関係であり、主との関係だ。愛の関係、信頼関係が生じて愛の行ないへと進んで行く。
----------------------
私達のすべてを知り不完全のままで愛して下さっている神様の愛をしっかりと受けとり味わい、感謝して一日を始めよう。価なき者なのになぜ愛して下さるのかを。