2024年07月15日(月)

「「あなたがたがのうちから、その聖絶のものを一掃してしまわな いなら、わたしはもはやあなたがたとともにはいない。」 ヨシュア7:12



モーセの後を継いだヨシュア率いる民が、主の指示の通りに従う
と、雪解けの水が溢れるヨルダン川を渡る事ができた。まさに主の
奇跡であった。カナンに入るや、目の前に立ちはだかるエリコの城
壁。それも主の示しの通りに行動すると、主が城壁を崩された。一
方的な主の奇跡であった。次にヨシュアは、アイへ偵察隊を遣わし
た。

すると彼らは戻り「二、三千人で大丈夫です」と言った。そこでヨ
シュアは三千人を戦いに出した。ところが何と敗北したのだ。想定
外の事実に、民の心はしなえて、水のようになった。勝利を疑わな
かっただけに、衝撃であり、大きな動揺だった。奇跡のヨルダン渡
渉、エリコ城壁崩壊は、大いなる主が共におられるという、その事
がヨシュアの拠って立つところだった。

そのため、敗北の事実自体が、それらをなし崩しにしてしまう事
だ。主の御名はどうなるのか。周囲の敵の前で、この敗北はどうな
るのか。何よりも敵は主の御名も、ヨシュアたちも、もう恐れる対
象では無くなってしまう。ヨシュアは、事の深刻さに「なぜです
か」とひれ伏した。「大いなる御名のために何をされるのか」と。

だが「大いなる御名」こそがこの敗北を与えられた。全能の神は、
聖い神だ。「聖さ」ゆえに、罪あるところに働かれない。妨げは民
の側にあった。主は罪を示され、アカンの罪が発覚した。罪は主と
の仕切りとなる。すぐ主のもとへ行き告白しよう。罪を対処した時
に、再び主は勝利を与えられた。
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主の十字架により、アカンのように滅ぼされることは今はないが、
主は罪を赦されても、見過ごされることはない。示されているなら
告白して悔い改めよう。そして赦されて主の前に立とう。