2009年04月15日(水)

 「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして・・」ピリピ2:6                         

 

人は皆、プライドで生きている。男性は仕事や地位に格別高いプライドを持っている。母親は子供に自分の夢を託し、子供により自分のプライドを満たそうとするかも知れない。

プライドは、子供の人生を奪い取ってしまう。様々な対人関係で、プライドとプライドが衝突し、火花を散らし、争い、怒りや憎しみが起こる。

妬みや敵対心、争いは、実はプライドから発生している。
プライドは神の中に自分の価値を見るのでなく、自分の能力や功績によって、自分の価値を量ろうとする。

それは順調に行っている時は、優越感に浸り、うまく行かないと劣等感に落ち込む。プライドは優越感と劣等感を行き来して、心休まる時が無い。一生平安と安堵の無い、虚しい人生だ。

パリサイ人は、徹底してプライドに生きた人達だ。彼らの正しい行ないの動機は、愛とあわれみではなく、プライドだった。

主キリストは、プライドとは何の関係もなく、徹底して愛とあわれみに生きられた。様々な事態の中で、プライドが砕かれ、へりくだった者とされる。主はご自分を無にしてへりくだって仕えられた。

私たちは自分で自分を無にする事も、砕く事もできない。
主の取り扱いだけが、自分を変えてくれる。今、問題があるだろうか。プライドが砕かれるためではないか。 
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プライドのために、どれだけ傷つけ、傷ついているだろう。砕かれずに成長はあり得ない。起こる問題の中で自分の内を照らされ、あいまいにせず主に明け渡していこう。