2009年08月19日(水)

「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます」マタイ19:26



若い役人が主のもとに来た。社会的地位があり、有望な将来があり、資産を持ち、律法も学んでいた。何不自由無い生活、名誉と地位、人からの尊敬を得ていた。
しかし、永遠のいのちの確信が無かった。

「どんな良い事をしたら、永遠の命を得られるか」と主のもとへ来た。「・・したら」と永遠の命は報酬として貰えるものとの価値観がある。
する事でなく、良い方はひとりと、良い方の問題だ。

「戒めを守れ」に「守っている」と答えた。外側は模範的生活をしていて、自分は正しいと思っていた。その彼に、主は持ち物を売り、貧しい人々に与えるように言われた。彼にはできなかった。

彼は自分の本当の姿に気づいておらず、知らなかった。
つまり、隣人を愛してなどいない。主は彼に罪人だと教えようとされた。
自分の真の姿を知る事なしに何も始まらない。

永遠の命は「する事」によらず、自ら罪人と認め、信仰により恵みによって受けるものだ。しかし、彼は主のもとを去った。反発、反抗ではなく「悲しんで」だった。
そう出来たらいいが無理、出来ない。

人間の力では不可能だ。私達も出来ない。「それは人にはできないことです」主はご存じだ。しかし「神にはどんなことでもできる」主のもとを去るのでなく、出来ない事を認め、主に求めることだ。主は、その求めを待っておられる。
「良い方」が、従えるよう助けて下さる。
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する事ではなく、受けて、受けて行こう。私達には出来ないのだから。出来ないと主に求めるから、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのだ。