2009年12月19日(土) 「兄はおこって、家にはいろうともしなかった。それで父が出て来て、いろいろなだめてみた」ルカ15:28
「兄はおこって、家にはいろうともしなかった。それで父が出て来て、いろいろなだめてみた」ルカ15:28
弟の放蕩息子は有名だ。しかし、背後に隠れて兄息子がいた。弟が帰宅し、喜ん だ父親が祝宴を催した。兄息子は畑仕事に出て、弟が家出した後も、忠実に父に 仕えていた。 ところが、家の近くで、弟の突然の帰宅を知る。喜びの宴、子牛をほふらせた父、 この光景を見た時、何と兄息子は激怒した。怒りで家にも入らない。弟の帰還を 機に、兄の普段決して出ない心の奥が現われ出た。その心の奥の思いは、彼をな だめに出た父親に噴出した。 彼は自分が正しいと思っている。「長年の間、お父さんに仕え、戒めを破ったこ とは一度もない」自己正義のパリサイ人とダブる。それなのに正当な報酬が与え られていないと、実は不平不満で一杯であった。「楽しめと言って」子山羊一匹 貰った事がないと。実は、本当は自分も世を楽しみたかった。 本音は弟と同じであり、それを鬱屈させていて、弟より更に問題児であった。父 は一言も彼を叱っていない。責めてもいない。愛に満ちていた。そのまま、受け 入れ「私のものは全部おまえのもの」との莫大な祝福と特権、愛を伝えた。 兄息子の応答は記されていない。兄の姿は、自分を映した鏡だろうか。実は仕え るのが嫌で、しんどくて、不満と怒りがあるか。正直に自分を神の前に開き、認 める時に初めて、真に御父と交われて、平安と喜びに満ちた信仰生活へと変えら れる。 弟息子にも、兄息子にも、あなたへも、同じ変わらない父の大きな愛と深い慈し みが注がれている。 ・・・・・・・・・・・・・・ 「命令は重荷とはならない」、重荷となっていたら、何かがおかしい。御霊によ らず、自分の力で動いているので、自分の肩に荷がかかって来る。喜びが失せ、 人への裁きが出ているなら要注意だ。そのままで目を主に向けるよう。おおいが 除かれ、自由にされる。