2010年02月16日(火)

「それから彼らは、アジヤでみことばを語ることを聖霊によって禁じられたので、フルギヤ・ガラテヤの地方を通った」使徒16:6



私たちは人生の大切な進路や、また、日常の信仰生活の些細な事でも、どの道を選べば良いのか、わからなくなる事がある。私たちには、未来はいっさい見えず、少し先の事すら見えない。

先が全く予測できないので、不安や恐れを感じる。しかし、主は共におられるので、必ず私たちの進むべき道を示し、導いて下さる。「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです」とあるように、つまり神の子どもは、御霊が導かれるということだ。

パウロはアジアで宣教しようと考えた。しかし、御霊はこれを止められ、マケドニヤへ行くよう導かれた。この間、パウロは状況を見つつ、祈った事だろう。その祈りの中で「神が私たちを招いて・・確信した」の通り、「確信」が与えられた。更に大きな御心があり、神はヨーロッパ宣教へと導かれた。

私たちもここで学ぶ事ができる。状況的に目の前の門が閉ざされたなら、導きが別の方向にあるという事だ。まずよくよく祈ろう。自分の思いを明け渡し、祈るなら、目の前に御心の門が開かれる。そこで尚も祈り「確信」が来たなら、その道へ進もう。

不安があるなら、急がずに、平安が与えられるまで待ち、祈り続けた方がよい。平安による確信が来たなら「ただちに」行動しよう。又、目前で門が閉じられた場合も、別の更に大きな御心の道がある。
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計画通りに事が運ばない時は、何度でも導きを祈り求めてみよう。それは神が閉ざされていると捉え直す道かもしれない。日常の些細な選択にも御霊の導きがある。主の導きのままに今日を歩もう。